鶴橋の疎開道路

鶴橋についてのあれこれ
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コリアタウン入り口、御幸森神社の前の南北の大きな道路を疎開道路と呼びます。

鶴橋を観光する際は覚えておきましょう(笑)

第二次世界大戦中、中国や太平洋での戦争が激化するにつれて、日本国内でも戦争体制が強化されました。当時、人口約37万人、面積約10平方キロメートルを有していた東成区では、兵事や生活物資の配給、援助などの国の施策に関連する行政業務が増大し、住民にとって不便が増大していました。これを解決するため、行政区画の適正化を図り、1943年に生野区が新たに設けられました。

また、防空のために「豊里矢田線」と呼ばれる南北に走るバス通りが作られ、この通りは現在も「疎開道路」として知られています。この道路は、アメリカ軍の空襲からの火災を防ぐために、建物が取り壊されて作られた空き地でした。建物の破壊はロープと大槌を用いた手作業で行われ、1944年2月から6月の間に幅12~13メートルの空間が作られたとされています。

生野区の誕生と疎開道路は、戦争の歴史を今に伝える重要な証人の役割を果たしています。御幸森神社や寺を訪れることで、戦争の「生き証人」と出会うことができるかもしれません。

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