比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)は、大阪市東成区に位置する歴史ある神社です。この神社は、かつての村社であり、式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一つとされています。もう一つの論社は高津宮摂社・比売古曽神社です。
祭神
比売許曽神社では、下照比売命を主祭神としており、速素盞嗚命、味耜高彦根命、大小橋命、大鷦鷯命、橘豊日命が配祀されています。江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社でした。
歴史的記録
『古事記』には、新羅から来た阿加流比売神が難波の比売碁曽の社に坐すとの記述があり、『日本書紀』にも同様の記載が存在します。しかし、『延喜式神名帳』では下照比売社を比売許曽神社としており、阿加流比売命を祀る赤留比売神社は住吉郡にあると記されています。
創建と変遷
垂仁天皇2年7月に愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことが創建の始まりとされています。顕宗天皇の時代には社殿が造営されました。延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されています。当社の境外末社・産湯稲荷神社がある地が旧鎮座地と推定されています。
比売許曽神社の歴史は、日本の戦国時代の動乱を反映しています。特に、天正年間(1573年から1592年)に起きた出来事は、この神社の運命に大きな影響を与えました。
天正年間の出来事
- 織田信長の石山本願寺攻め: 天正年間に、織田信長が石山本願寺を攻めた際、比売許曽神社はその兵火に巻き込まれ、社殿が焼失しました。
- 神体の遷座: 社伝によると、神社の神体は焼失を免れ、摂社であった現在地の牛頭天王社内に遷座されたとされています。しかし、この話が事実かどうかは明らかではありません。
復興と変遷
- 荒廃と所在の不明: 天正年間以後、神社は荒廃し、その所在が不明となりました。
- 天明8年(1788年)の出来事: この年、ある人物が比売許曽神社の旧記神宝を発見したと主張しました。これに基づき、比売許曽神社の縁起が編纂され、牛頭天王社を式内・比売許曽神社に当て、下照比売命を主祭神として祀ることになりました。
- 『大阪府神社史資料』の記述: この資料では、縁起の記述について「信ずべきものにあらず」との見解を示しています。
- 明治5年の変化: 明治時代に入り、比売許曽神社は村社に列されました。